塾生日記『ハイデガー入門を読むということ』れい


ハイデガー入門の『存在と時間』の章まで読み終えた。

読書期間中に心境の変化や思うことが多々あったので、感じたままを書いていこうと思う。

僕にとっての世界内存在の編み換え
ハイデガー入門を読み進めている時、燻製をしていた。各工程が思いのほかうまくいかず、かなり無理やりに燻製を推し進め、燻製もどきが出来上がった。燻製に関して一通りの行程を済ませた時、思いが霧散してしまい将来のことまで以前ほどの熱をもって考えられなくなってしまった。
ここでハイデガー入門の哲学に触れていたおかげで、なぜこんな心理になったのか深く考えることができた。木戸さんの助け舟もあり以下の様な了解を得た。

燻製器をつくるきっかけとなったのは、焼き畑をやった時に立ち上る煙を見た所からはじまる。幼い頃、縄文式の蒸し焼きの真似事をしていたことを思い出す。なんとなく昔からそういう調理法に憧れはあった。そういった僕の性格傾向が、煙を見たときに燻製を連想させ、燻製器の製作が手の届く範囲のことであることから、やってみようということになった。
僕は燻製をする形式に楽しみを見出していた。「器具を作り、密閉空間の中で熱と煙で物を燻す。」これが達成された時点で、豆炭がうまく燃えない、塩抜きが甘かった、ソミュール液がまずい…等の問題が転がっているにも関わらず、燻製に対する熱が消え去ってしまった。悪く言えば「ままごと」がしたかったのだ。おいしい燻製が食べたいであるとか、人に振舞って喜ばれたいとかそういったことを企投してのことでは無かった。

このことを了解したことで燻製器を見る目が変る。僕が燻製器を儀式の道具のように見ているのがわかった時に生まれたのは勿体無いという気持ちだった。儀式的な役割を企投されて生まれた燻製器はもともとの役割を終えていたが、僕の燻製器に対する存在了解をきちんとした時、また新たな道具存在として認識される。

儀式的に煙を出す道具にしておくには勿体無い、食べられる燻製を作れるポテンシャルを持った道具だ。
食べられる燻製ができたら、今度はおいしく作ることに注力するだろう。
そして、心からおいしいと思える燻製ができた時、人に食べてもらいたいという気持ちが生まれる。これは確信を持っている。それから後は色々試して「一生燻製をできたらいいなぁ。」となるだろう。将来的に狩猟との関わりも生まれてくるかもしれない。
ただ、ここで僕の弱気が出ているのが「人に食べてもらうためにおいしい燻製を作る」ことを最初から企投できない所だ。どうしてもできない。段階を踏んでいって、「おいしい燻製」という存在を投げかけられて、はじめて人に食べてもらいたいという企投が生まれる。
昔の僕であれば、何となく燻製器から心が離れたら、深く考えずに手を付けなくなって忘れてしまっていただろう。ここで、ハイデガー入門で学んだ、自己了解による企投や世界の編み換え、世界内存在における道具存在への配慮的気遣いなど、考えるための材料がなんとか揃っていた。今までできなかった気持ちの切り替えのようなことができるようになった。

自我への脅威
ハイデガー入門の『存在と時間』の章を読み終える頃には哲学に対して言い知れぬ窮屈さを感じていた。そんなにも、本来性や先駆的決意性を念頭において日々生きなければならないのか、僕の漫画、ゲーム、格闘技鑑賞、アニメ、歴史、映画等々の僕の本来性と関係が無く、好奇心のみで拘わっていることは全て唾棄されるべきものなのか。もしくは今まで以上にそれらについて突き詰めた思考を持つ義務を課せられるのか。そんな人生は苦しい。息が詰まりそうだ。
なにより自我の危機である。今まで価値あるものだったものが、価値なしとされてしまうからだ。本来性と関わりがないといっても、全て情状性から出てきたもので僕の一部である。
結局、非本来性を帯びたことをしてもいいと思うという考えに落ち着いた。理由は僕がいいと思っているからだ。「たい落している」とか、「ハイデガーに触れたというのになんという体たらく!」とか言われても仕方ないが、嘘偽りの無これが現時点の僕です。あまり本来性から離れたところに関わってばかりだと、そちらの連関に組み込まれ、本来性から外れていることすら忘れてしまう恐怖はあるが。

「死」について
全体性は、死の立ち位置から自分を見据えた時に見えるらしいので、自分の固有の死という問題を隠蔽し、目を逸らしながら生きることが、たい落に繋がるとハイデガーは言う。そして、隠蔽された『最も固有な最も極端な存在しうることを了解しうる可能性』、ハイデガーがいう所の「固有の死」に向き合う姿勢を「先駆」という。それは「自分が死すべき存在であることを深く自覚すること」だ。その自覚からでないと、自己の全体性が見えてこず、固有の本来性を生きる決意性を得ることができないとハイデガーは言う。僕は死の立ち位置にどうしても立てない。では僕は本来性に到達するどころか迫っていくことすらできないのか。それは嫌なので、まず「死」が関わらない小さい固有の問題から片付けていこうと思う。
例えば燻製器に関わって過ごすこと、これは僕の固有の問題である。「死」の問題に比べたら、小さい小さい問題ながら、誰でもない僕が取り組まねば納得のいかない案件だ。しかし、そこに「死への自覚」は無い。
さらに先を考えると、僕が感じられる『最も極端な存在しうること』は猟銃免許を取ることだ。そこへ目がけての企投もある。しかし、「猟銃免許を取る自分」の明確な存在了解がない。そこには曖昧性が存在するだけだ。ハイデガー的には「たい落」である。やはり「死」が意識できていないからなのかもしれない。猟銃免許をとってどうするのか。猟銃免許を取った瞬間に死んでしまうわけではないのだから、その後も恐らくは人生は続く。けれども僕が企投できるのはここまでで、語弊はあるがここまでが現時点の僕にとっての「全体」であると言いたい。それは共存在にとっての有意義性を見つけられないので今の段階では本来的とは言えない。さらに言うと、猟銃免許で自立できるわけでもない。しかし、猟銃免許を取ろうとする過程で、自分に問い続ければ曖昧性から存在了解へと変質していくはずだ。そして全体が終わるとき、きちんと了解が為されていれば、また新たな全体が見えてきて、本来性に迫る企投ができると思う。

学習したこと
ハイデガー入門から学んだのは、自己了解の大切さだ。
一個一個物事を丁寧に考え、自分にとっての何であるかを定義していかなければならない。
そこからでなければ自分の本来性に近づくための企投は生まれてこない。そして企投の先の了解も。
その営みが実存論的時間概念での「今を生きる」ことを生み出すのだから。
今はただ本分を忘れぬように自己了解し続けることだ。
ハイデガーの実存の定義、「了解しつつ存在すること。」これを丁寧にやることが大事なように思えた。これを守っていれば、少なくとも曖昧性のなかで生きることは避けられ、本来自己に到達できる可能性を持てるはずだ。

感想
人間の心の動きをここまで分解して考えられることが驚きでした。普段何気なく為されている、認知や道具の時々の捉え方などを分解して考えると、驚くほど複雑なことをしていることがわかりました。また実存論的時間概念も非常にしっくりきて、「既在」から「到来」に企投し続け、「既在」と「到来」の意味連関が生じるのが現在であるというのはストンと胸に落ちてきました。世界内存在としての自分という視点を得ることができたのが一番の変化点かもしれません。端々で「世界は内側にある。」と聞き及んでいましたが、それを一つの考え方としてすんなり受け入れることができました。
他者に関しても一方的に対象化し自分の都合のいいように自分の世界に映しこむのではなく、他者が存在してきた世界を尊重し共に認め合う姿勢が、他者の尊厳や、引いては自分の主体性を損ねない可能性を持つことを学ぶことができました。

朝、昼、夜と付き合って頂きたくさんの助言をくださった木戸さん、一人では哲学の本を手に取ることも無く、たとえ読んだとしてもここまで考えこみませんでした。稚拙で論理破綻している所はあるかもしれませんが、ハイデガー入門に関して自分なりに何か書くことは一人ではとても為し得ませんでした。ありがとうございます。まだ後期ハイデガーの章がありますが、どうかよろしくお願いします。

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